いつからだろう、何回目からだろう。

私が、この人にいってらっしゃいと笑って言うのが億劫になったのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行ってくる」

「いってらっしゃい」

 

嗚呼、ああ、またあの人は行ってしまう。

 

「なるべく早くに帰ってくるでござるよ」

「大丈夫よ、折角の横浜だもの。日頃家に縛り付けられてるのだし、この機会に少し羽を伸ばしてきたら?」

「いや、拙者は」

「いいのよ」

「・・・そうでござるか?まぁ、時間があればそうするが」

「うん、そうしてよ」

 

ああ、またこんな笑顔。

なんて、可愛げのない。

口の端を僅かに上げて伏し目がちに笑う。

薫の満面の笑みをまるで大輪の花のようだと称賛する者はこの街に多い。

しかしこの男はその大輪の花と同じぐらい、薫のこの、

名も知れずひっそりと日陰で咲くような微笑を気に入っている。

この男にだけよく見せる顔だから。

薫も、いつからかそれを知っていた。

そしてこの笑い方は、この男から移されたものだということも。

 

 

「土産でも買ってこよう」

「うん、ありがとう」

 

 

いつからだろう、何回目からだろう。

私が、この人にいってらっしゃいと笑って言うのが億劫になったのは。

まだ子供もいない時分で、傍から見ればそれは新婚と言う名の、

まるで甘い楽園のようなそれを人は思い描くのだろうが。

 

「お似合いね」

「あんな旦那さん羨ましい」

「これで亡くなった神谷先生も雲の上で胡坐をかける」

「きっと幸せになれるわ」

 

それは、そんな言葉をかける人間の、現実には叶わぬ理想だったり、未来ある者への羨望だったりして、

当事者の存在はまるっきり無視に勝手にキラキラと独り歩きした。

 

 

 

 

「・・・・・・・・・もう、また出稽古でからかわれるわ」

 

赤い背中が見えなくなるまで手を振っていると、近くの道場の幼い門下生がそこを通りかかって、

何か声をかけるでもなし、やんやと囃し立てるわけでもなし、ニヤニヤと後を引く笑みを投げかけていった。

そんな中さすがに最後までは見送れず、逃げるように門の中に入ってしまった。

 

「・・・・・もう、剣心も剣心よ。照れもしないで最後までこっち振り返るんだから」

 

さあ今日は稽古も朝の内に済んでしまったし、何か家事をしようにも、

この家は普段からあの主夫が動き回ってるせいで、別段目に付く箇所などない。

 

「こうゆう時、妻の立場がないわよね。まったく。 

まぁでもこんな台詞、妙さんあたりが聞いたらきっとまた呆れられるだろうけど」

 

誰もいない正午は独り言がやけに増える。

妙の所にお邪魔しようかとも思ったが、何分昼の掻き入れ時だろう。

結局、なんとなく他人様の家のような居心地で我が家をウロウロして、

最近マメに見ていないとすぐに丈が合わなくなる愛弟子の古着にでも針をあてようという所に納まった。

独り言の代わりに鼻歌を口ずさむ。

 

「さーーかさまーーのおーーつきさん、いーーつやいーーつか、おーーちいるーーー」

 

そうしないと、あの日向の奥の、廊下の隅にいつのまにか根付いている、あの真黒な影に飲み込まれそうで。

 

真昼の縁側はやけに静かだ。今日は朝から天気がいいし風も穏やかに頬をなでる。

しかし彼を見送った後のこんな日は、そんな事はあまり関係がない。

 

「大丈夫」

 

薫にとってそれは、魔法の言葉だった。

まるで、幼子をあやすデンデン太鼓のような、

或いはまるで、「いたいいたいの、とんでけー」と母が幼子にかける頼りない呪文のような。

 

何かを一人で抱え込まなくてはならない時。

誰もいなくなった時。

どうにもならない事をどうにかしようとしている時。

おそらくどの人生にも起こる理不尽なそれら。

 

日頃かしましい女だと愛弟子にも小突かれる薫は、

意外にもそれを他の誰かに分けて楽になるとゆう、一番楽な方法を取ることはしなかった。

それが、大きい事柄なら尚更だ。ただこの場合、薫自身がその大きさに気づく事はない。

父の凶報が届いた時もそうだった。

それは彼女にとって、魔法の言葉だ。

 

 

 

―ねぇ、ためしに飲み込まれて、一度まっ黒になってみたらどうだろう。

活心流も何も捨て、あなただけが大事だと。

私の為にそのあなたの大事な、大事なそれを捨てて下さいと、そう言ったなら。

―いや、そんな事。

彼はきっと私に幻滅する。そんな重い女は俺の道には邪魔なのだと、捨てられるだろう。

そんな事、微かに匂わす事さえ恐ろしい。

―そうか、それはそうだろう。

―そうだ

―そうか、では、私は一体何?

 

 

 

「い・・・・った、い」

 

ぷくりと玉のような赤いものが、白い指の先から溢れ出た。

ぼうっとしてそれを眺めていると、すうっと己の指を素早く伝ったので、慌てて口に含む。

鉄の味が口内に広がった。

そういえばあの人の胸板に一度、舌を乗せたときもこんな味がしなかったかと考え、

何を考えているのだろうと、頭を振った。

 

 

「大丈夫、大丈夫」

 

なんて取り留めのない事だろう。

誰に何を相談する事でもない。今日はきっとどうにかしてる。

 

ただ、こんな誰もいない、まるで穏やかな五月晴れの日に。

ただ。

 

 

 

「あら?深かったのかしら、止まらないわ」

 

 

生きてる限り、傷を作ればそこから正直に血が流れるように、私たちはずっと恋をしていく。

多分、子供ができて、皺が増えて、体が動かなくなっても。

一定に離れたこの年の差のように、一生埋まらない縮まらない距離感が思いの外苦しいことを薫は最近知った。

夜の私たちは、昼の私たちからは本人達も想像がつかないほど、ひどく、獣的だ。

理解したいひとつになりたい完全になりたいと息を切らして互いに貪り求め合うのに、

それが満たされるのは一瞬のこと。叶わない。

叶わないから焦がれて、水面下で、欲しい欲しいともがき、

互いに目を開けないままお互い違う欠片を手にして、今はこれではないのだと呟いては放る。

なんて滑稽な。

 

だから私達は、一生お互いに恋なのだ。

 

ああ、こんな時にあの人がいてくれればいいのに。

こんな、取り留めのない、何気ない私の一挙一動を誰か。

誰でもない、あなたが。

 

 

ただ。

 

 

 

 

 

「さみしい」

 

 

 

 

口の中で、確実に彼の味がする。

静かに涙は流れるけれど。喉をゆっくり動かした瞬間、その味を奇妙に、甘く感じた。

 

 

 

 

 

 

 

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移った笑顔は緋村に帰化する。彼はそれが嬉しくてたまらないのだから救われない。

 

 

 

 

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